湘南イラストレーション倶楽部 相浦裕 【ただいま生徒募集中!】

相浦 裕 → 日本人。 長崎県出身。
誕生月日 → 11月23日勤労感謝の日
身長181僉 体重75繊
人間→ O型。温厚。のんびり屋。
好きなもの→ 絵。たまさちゃん。サイクリング。電車に乗ってお酒と美味しい弁当を食べること。ウォールトディズニーの世界。 お好み焼き。寿司。すき焼き。

 たまさ(ちゃん)。
 生年月日: 2010年10月10日。
  Breed: Scottish Fold (三毛猫)。
Eye Color:  Gold。
  性質:  気まま。自分勝手。
  長所:  とてもかわいい。
街4. 喜志駅       相浦 裕です。
                           
近鉄南大阪線阿倍野駅から約20分で喜志駅へ到着した。
大阪芸大はこの駅からスクールバスが出ている。
バス
この駅が通学に便利だしアパートを探して住むことにした。
喜志駅徒歩3分の場所へ引っ越しも終了して荷物を広げていると中から日本酒が出てきた。この日本酒の一升瓶を見るたびに日本デザイン専門学校のY先生が「おめでとう!」と言って頂いたことを思い出す。
まだ引っ越して間もないのに東京のほうが第二の故郷的で懐かしくなっていた。
友人と知り合いは東京が多い。
何となく寂しくなってしまい頂いた日本酒を頂くことにした。
熱燗ビールおいしかった。
 
以前記述した中国からの留学生は4年間の中でも印象が強い。
それからイラストレーターのN先生は忘れられない思い出がいっぱいある。
アメリカへの飛行機の中でも同席して気が合った。
ほぼ徹夜で話がはずんでしまい朝になりハワイに到着した。
帰国後もますます先生の自宅や仕事先でもよく話した。
ともかく芸大での4年間は学校の実技も遊びも充実していた。
拍手
 
しかし実技授業は厳しく宿題の課題実技もあって大変だったが自分にとっては楽しかったのだ。
夏休み冬休み春休み暇そうな印象の大学生だが芸大生はまったくヒマなし状況だった。
長期休みにアルバイトもできないように次々と実技課題の連続だった。
だから中途半端に「美術とか絵が好き」くらいではついていけない。
大好きで苦労も厭わない精神が必要不可欠。
1年生が終わるころには嫌気がさして半分は脱落する。
2年生でついていけなくてその半分になる。
3年生で進級できなくてその半分になる。
4年生で卒業制作とか課題をクリアーできる人は少人数になった。
夢の電通・博報堂は学内審査で推薦された数人が就職試験を受けることができた。
希望就職が叶う人なんてほんのひとにぎりにすぎないのだ。
ジョギング本当に厳しい現実だ。
 
就職を考えていたある日、日本デザイン専門学校のY先生から連絡があり、
「ウチの学校でデザインを教えてみないか。」という内容の話があった。
美術・デザイン系の就職口が難しい状況を熟知していただけに「僕でよろしいんでしょうか?」と逆に尋ねた。
すると「だってウチの学校で生活してたし、身内のような相浦君の人となりを把握していたので期待してるよ。」
という内容の話をあとで頂いた。 
電車を待つ喜志駅のホームで 嬉しすぎてゾクゾクしてきた。 
おてんき   相浦 裕です。
 
| 相浦 裕 | - | 20:36 | comments(0) | trackbacks(0) |
街3.新御茶の水駅&東武練馬駅。 相浦 裕です。

高校の夏期実技講習会を終え東京駅を出発する寝台特急「さくら」の窓に映る有楽町を見ながら「高校なんか早く出て東京で生活したい!にじ」と思った。 
翌春卒業して東京で1年浪人することになり御茶の水美術学院へ通いはじめた。
再び東京で寝床を探さねばと、まずよく知る代々木駅でとりあえず不動産屋へ行くことにした。
代々木駅から千駄ヶ谷方面へ1分くらいの場所に開かずの踏切がありそこを渡るとひとが一人しか入れないような犬小屋のようなものがあった。通りすがりに何気にその犬小屋に「学生援護会不動産情報紹介」という看板が見え外看板の不動産情報を立ち見していた。
そこに世話好きそうな大学4年生の方
ふふっ。が興味深げにこちらをジロジロみながら「東京きたばかりなの?じゃ僕がいいところ知ってるからさ〜紹介してあげるよ。」とニコニコ笑顔で親切にアパートファイルを開いて探してくれた。
「練馬区平和台に狭いけど安くて賄付きのいいアパートあるよ。今から内見できるよ。」とドンドン自分で決める、まだこちらは「内見へ行きます」と言ってないのにそのお兄さんは「はい、いってらっしゃい。」
早くアパートを探さないとまずい、という焦りから訳が分からないまま言うことを聞いて内見した。
長崎の家の自分の個室は8畳+空き部屋8畳があった。それに比べると、この練馬のアパートの2階には3畳と押入れしかなかった。あまりに狭くて苦しい。ただひとり住まいの自由がある。そのほうがワクワクだ。3畳に身長181僂梁里鯢屋の対角線上に寝てみたらギリギリで大丈夫ということが判明した。窓を開けると隣のアパートがあってすぐ手を伸ばすと届く位置に隣の窓があった。しかもそこには女子学生が住んでいるのだ。
キャラメルコーンもどき@ぴよたま春のそよ風に花柄のついたカーテンがゆれている。
女子らしい部屋の中が見え隠れしている。どうしよう。住んでいいか、否か。
契約もしていないのに既に妄想がドンドン膨らんでいく。
「お客さん、どうかしましたか?さっきから声かけても返事がないですけど。」
「あ〜ちょっと迷っていただけです。ここ賄付きで気に入ったのでここにします。」
新御茶ノ水駅から約17分くらいで池袋駅。池袋駅から東武東上線で約20分。東武練馬駅から歩いて15分。「ウ〜ン。寝床があるだけましか。」佐世保を出て寝床もない不安だけの心理。そんな心細い気持ちの中で食事付きで、しかも「隣の窓」という妄想つき物件、やっぱり決めた。
「代々木の学生援護会のお兄さん、ありがとうございました!」
♪
桜の花も咲き4月に入り御茶の水美術学院へ通うことになった。
一日中デッサンだ。次の日は一日中色彩平面構成課題。その繰り返しが続き数か月経過すると根気がある人、ない人がふるいにかけられる。9月くらいになると生徒が半減してきた。
友人に佐賀駅前の大きな老舗精肉店K君がいた。彼はいつもお昼はクラシック音楽が流れる純喫茶でスパゲッティを食べて食後は好きな雑誌を読みながら煙草で一服するという優雅さ。
帰郷の際、K君の家へ泊めて頂いたとき老舗割烹料理屋のように大きい家に広い日本庭園。
夕食は地元佐賀牛の豪快ステーキで腹いっぱい食べた。最高の味だった。
ケアベア
K君の東京での生活レベルもこれで納得した。
月末の金欠時、ランチは悲しい事にデッサン用食パンを口にして 凌いだ。
これじゃK君に近づけない、と思った。ならばバイトして稼ぐことを思いついた。
ちょうどそんな心境でいる頃、学校の掲示板にバイト募集の貼り紙を見た。
内容は日本デザイン専門学校の住み込み夜間宿直員だった。
「おォ〜すごくいい仕事。」
ハート
前任者はOさんでフランス国費留学を非常に難関な合格率の中で見事、国に認められた方だった。
Oさんはフランスへの渡仏準備に入るため日本デザイン専門学校宿直員を辞めるとの事だった。
学校経営者の部長と面接し、後日内定してOさんの後を引き継ぐことになった。
今度は この日本デザイン専門学校が住処でお茶の水美術学院迄通うことになり中央線一本でJR代々木駅からJRお茶の水駅。近くなり便利になった。
またしても代々木駅であった。この駅は本当に縁がある。
でっかい明治神宮と広々とした代々木公園が夏期実技講習会での市役所宿泊所より近い。原宿・渋谷・新宿も近い。
月給があるので たまに美味しいものも食すことができる。
代々木駅の山手線高架下でカウンター席の狭いカツライス定食屋を発見した。
そのカツライスがかなりうまかった。
カツライスができると次に高齢のおばあさんが作る豚汁が出てくる。
「ウワ〜ッ!母の豚汁〜!」
花味がそっくりだった。
東京で食べる本気で美味しい豚汁だ。
その後、東京のどこに移転してもこの豚汁の味が忘れられずに食べに行く。
代々木の生活は楽しかった。
受験後の春、大阪芸術大学芸術学部デザイン学科へ合格した。 
Y先生が「おめでとう!」と言って一升瓶の日本酒をプレゼントしてくれた。
家族でさえそんなことしてくれないのに。とても嬉しかった。
大阪への船出のときは日本デザイン専門学校の職員数人が引っ越しの荷物を
トラックに積んで頂いたりして、とても嬉しく胸にグッときた。
リラックマ
東京は自分にとって良い印象ばかりだった。
 相浦 裕です。

 
| 相浦 裕 | - | 05:25 | comments(0) | trackbacks(0) |
街2.代々木駅。   相浦 裕です。
私が「絵」をライフワークにするスタート地点は代々木駅きらきらからはじまった。
それはいつも放課後に通う高校の美術部室の廊下の壁に阿佐ヶ谷美術学院の夏期講習会ポスターが貼り付けてあったことがそもそものはじまりだった。
ポスターのド真ん中にブルータス胸像デッサンが木炭で描かれていた。
その迫力あるポスターを見た瞬間に「デッサン講習へ行きたい。」と思った。
音符
「こんなブルータス胸像を描けるようにデッサンをうまくなりたい」と思った。
それは美術大学へ進学するための受験準備をするためでもあった。
受験実技はどこの美術大学もデッサンとポスターカラーで描く平面構成の課題試験がある。夏休み期間中の講習会が高校生には唯一の練習場所だった。

代々木駅にある佐世保市の宿泊所を拠点として阿佐ヶ谷美術学院夏期
実技講習へ通った。
阿佐ヶ谷の街は駅南口にはパールセンター、すずらん通りという商店街があり、買い物客でいっぱいだ。どちらかというと「若者の街」というイメージが強いが、意外にも年配の方をよく見かける街。北口から中杉通りにかけて、ケヤキ並木の美しいショッピングゾーンがあって学校帰りに立ち寄ったりした。

市宿泊所は代々木駅から2分ほどの距離で東京を知り得る上で何もかもがここからはじまったところだった。
代々木駅から千駄ヶ谷方面へ向かって3分位の場所に明治神宮入場門があり無料で入場可能なので気晴らしにいつも散歩していた。奥深く迷うほど広かった。恋人達
ハートがあちらこちらにいて手を繋いだり抱き合ったりして仲良くしていた。
明治神宮の隣は代々木公園。ここも公園としては広くて整備されて広い敷地には体操するグループ、瞑想をする人達、大学のクラブ活動、母子で遊ぶ人、イチャツク男女。バドミントンする人達。色々な人々が自由な空間で寛いでいる。雰囲気そのものが素晴らしい
四葉のクローバーところだ。東京は緑もなくコンクリート砂漠と聞いていたので現地に来て正反対の印象に驚いた。

代々木公園のすぐ近くにNHKがあり館内見学した。大河ドラマのセットや出演俳優顔写真、広いスタジオ、珍しいものばかり。
代々木から明治神宮を通り抜けるとそこは原宿があり竹下通りも近かった。ファッションの街では道行く人々すべてがファッショナブルで何か起きそうなくらい斬新奇抜な人がいて新鮮でドキドキした。

代々木駅を起点として明治神宮とは逆側に歩いて行くと開かずの踏切があり、そこを通過すると甲州街道がある。
そこを渡ると代々木駅から歩いていける距離に新宿の街が大きく広がっている。歌舞伎町も恐る恐る見学してみた。
九州の高校生に新宿の街は刺激が強すぎる。
涙怖くなって早々と代々木駅へ歩いてひきあげた。
夏期実技講習期間は短くも高校生にはとても長くて貴重な時間だった。
東京駅から出発する寝台特急「さくら」
キラキラの中で「高校卒業したらまたここへくるぞ。」と思った。    
                                                                          相浦 裕です。

 
| 相浦 裕 | - | 22:04 | comments(0) | trackbacks(0) |
街1。― 佐世保駅。
●長崎県佐世保市。
 人口約23万人。私の名前は相浦、佐世保市の港に相浦港という港がある。
そこに今も私の
smile 相浦の実家 がある。
戦時中は軍港であり、戦後は造船所SSK・米軍駐留地・自衛隊を中心とした日本の最西端にある小さな街だ。
夜になると空は米軍のサーチライトが夜空へ向かってひかりのラインがあちらからこちらからと動めいていた。
そのときは「綺麗」と見ていたが、いまから思うと戦争というものがすぐ身近にあったんだとはじめて思う。それもいつの間にか時が過ぎて なくなっていた。
佐世保市の中心街には三カ町商店街、四カ町商店街がありそこには米兵が右往左往していた。
幼いころ市内繁華街はSPがジープでアメリカの白い水兵服の兵隊の監視をしていた。
時々酔って暴れる水兵
ダンスを複数人のSPで捕まえジープに乗せ連行されていた。
ベトナム戦争時アメリカ第7艦隊のエンタープライズ原子力航空母艦は、佐世保港に巨大な姿をあらわした。この来港に反対する日本の労働組合と全学連がその寄港阻止デモをして警官隊と血の大紛争事件
恐怖があった。
その労働組合と全学連は無数の石を警官隊へ投げた。その警官隊はあちこちで学生へ放水をして最後は警察が警棒その他で学生へぶつかってゆき流血場面を山の中腹の見晴らしのよい場所から唖然として眺めていた。
そして旧 佐世保海軍工廠の巨大な設備を継承した佐世保重工業SSKは「日章丸」という当時世界最大の13万トン巨大タンカーを建造した。小学低学年だった頃に見た船は佐世保港を埋め尽くさんばかりの巨大さに驚いた。
また米国の独立記念日である7月4日真夏の夜は毎年、大々的に花火大会が開催された。
大きな花火が打ち上げられるたびに「ド〜ン」という重い地響きみたいな花火
キラキラの大音響が窓ガラスをミシミシと揺らした。
佐世保市内全体を見渡せる縁側では猫のたま
もふネコとばあちゃんと家族全員集合して花火大会を心待ちにした。事前に準備していた大きなスイカを片手にして見上げる夜空の花火にみんな大きな歓声をあげて観賞した。風の流れで花火の煙の匂いがウチまで漂ってきた。家の中が真っ白になった。母だけは花火の煙の匂いが好きだった。それにお線香と香水の匂いも好きだった。それは家族全員がしあわせな雰囲気がいっぱいな瞬間だった。
 
最近ではハウステンボスも有名になってきたが 本物は佐世保の海がいい。
風光明媚な国立公園九十九島があり学校をさぼって海水浴にゆき泳ぎまくったくらいだ。
夏の夕方は海も空もすべてが真っ赤に染まり何とも美しいときがある。
この落書き帳には書ききれないほど色々なことがあったことを次々に想い出す。
(長くなるため 気が向いた将来書くことにする。)
本当に言い尽くせないほどの素晴らしい故郷だ。
笑顔  相浦 裕です。
| 相浦 裕 | - | 21:31 | comments(0) | trackbacks(0) |
たまさちゃんは Mだった。  相浦 裕です。

 丸いクルリンとした大きい目のクッキーモンスター たまさちゃん。

たまさちゃんはかわいい。何をしても愛くるしくかわいい。

目はクルリンと丸く どこまでも透明で美しい。

朝、外から薄青い光が射し込んでくる頃、寝ている人間にイタズラする。

かわいい肉球を人の頬に押し付けて起こすのだ。

びっくりして目をさますとピンポンダッシュのようにぴのこ:)逃げ去る。かわいい〜。

これが毎日の日課なのだ。

3ヶ月前のお誕生日にどこの家庭でもするように細い棒を持ってガサゴソと左右へ振り回すと たまさちゃんは お尻をふって戦いを挑んでくる。遊び興じるどこにでもある光景だ。

ある日 たまさちゃんがあまりに棒にスリスリしてきたので

何の気なしにたまさちゃんの体をその棒で軽く叩いてみた。

そうするとたまさちゃんは猫じゃないおかしい声を出したのだ。

いつものたまさちゃんの声はきちんと「ニャ〜きゃvネコ」と発する。

でも棒で体を軽くたたくときは 文字では表現不可能だ。

あえて表現するなら舌を巻くような声で「うにゃららら、うにゃららら」に近いような表現しにくい変な声を出す。

その次の夜、目の前の椅子にチョコンとすわりジーッと丸い目で何かを訴えている。

人間の女性だったら まさに 「好きよ。」と言っている。 そして

たまさちゃんが言葉をしゃべれるなら「棒で 体をたたいてぇ〜」と言ってるのだ。

棒を持ち昨夜のように軽く叩いてやるとまた「うにゃららら、0口0うにゃららら」に近いような表現しにくい変な声を出した。

その次の夜も棒で軽く叩くと同じような声を出して今度は体をクネクネしてきた。

それに叩かれるときの動きが激しい動きになってきた。

立ち上がったり、寝転んだり、歩いたり、お腹を出したり、頭を棒にあててきたり、

お尻を突き出したり、おじさんがオシッコしたりするときのように_| ̄|○足をガクガクさせたり、といろいろな変化に忙しい。

 その後、夜毎たまさちゃんは目の前の椅子にチョコンとすわりジーッと丸い目で何かを訴えている。・・言葉をしゃべれるなら「早く棒で体をたたいてぇ〜」と言ってるのだ。

なんとまぁ たまさちゃんは「 M 」だ。

| 相浦 裕 | - | 20:46 | comments(0) | trackbacks(0) |
なぜ透明水彩画を選んだか。
title icon透明水彩絵具を選択した理由。 title icon
私が高校生時代と芸大生のはじめの頃は 最初ポスターカラー(不透明水性絵具)を使用していました。その後、ガッシュ(耐水絵具)を使うようになりました。ガッシュなんて一歩先に進んだような気分でした。それからイラストレーションゼミを専攻して アクリル絵具を使うようになりました。これは水で溶かして乾燥すると耐水性になるという優れた特色を持つものでした。この時は時代の最先端の絵具を使っているようでそれだけでも自分はなんて芸術の先端を走っているのだろうと訳の分からない勘違いな頭になっていました。芸大生時代からアクリル絵具を長い間、使用し続けました。
そして私個人は長年、デザインや美術の経験の中で試行錯誤しながら考えた末、やっと「透明水彩絵具」という画材が一番自分に合う画材とわかりました。自分でも遅かった感も否めませんが、この画材は自由で楽しく自分にこんなに合う画材があったことを知らなかったことが悔やまれるくらいです。

透明水彩絵具を選んだ理由は単純です。
「透明水彩絵の具は色の重ね描きができて色の深みが出やすい。表現の幅が広い。実際に絵を描くときに気軽な感覚で表現しやすい。絵を直感的に描きやすい。従って風景画、静物画等々が気軽に描きやすい。描いた後の絵具の乾燥が早い。(ドライヤーを使用するともっと早く乾燥できる) 何といっても絵具が安い。後始末が早い=筆を水で洗いやすい。絵具を水で簡単に溶かすことができる。服や机に絵具がついてもすぐふき取れる。道具の移動に便利。風景画、静物画等々が気軽に描きやすい。ほかの画材の欠点と比較でき俯瞰できるようになってはじめて透明水彩絵具の長所があまりに多いこと。パソコンでの水彩画もあり、これも面白いと思うが、やはりアナログで手作業をして人間の手で筆で紙の上に創作した透明水彩画には人間しかできない温かみと味があり深い表現ができる。機械では上記のような手法等々は無理な部分がある。」
私がはじめて透明水彩画を描こうとした時、どのように描くのか表現技法がまったくわかりませんでした。恥ずかしい気持ちをひた隠しにし、ゼロからのスタートの気持ちをもって勇気をふるって有名な水彩画家の先生達へ片っ端から手ほどきを受けに出向きました。腕のある水彩画家はどのように透明水彩画を描くのか興味津々でドキドキしました。
私は まず最初に湘南地方と横浜でオーソドックスな手法の福井良祐先生に学びました。福井先生は白い画面に対してゆっくりと少しづつ薄く色をぬり始めました。それは丁寧で誠実な人間性を感じるものでした。お昼は横浜崎陽軒の弁当を先生と御一緒して今後の目標を話したり楽しく透明水彩画を練習することができました。
次はプランタン銀座でお菓子をメインに描く林真理先生に学びました。モチーフは毎回違うケーキをひとりに対して一個づつ林先生が準備して頂きました。その購入して頂いたケーキを見ながらデッサンし着彩していきました。そして描き終えると自分で描いた絵を見ながらコーヒーとケーキを食べました。この透明水彩画の練習は面白いなと強く感心しました。普段のケーキより2倍くらいにすごく美味しかったです。
中国の王軍先生は体を動かし踊っているように描きます。筆が踊っているかのように見えました。それほどリズミカルで楽しく描いていました。自分を信頼しているから自信のある強い筆さばきを感じました。透明水彩画は水彩紙へ水をたっぷり塗りますが王軍先生は机の上にまで水を画用紙の範囲にたっぷりぬります。この手法は誰もやっていないことなのですごく驚きました。そんな中国の水墨画の要素が入った風景の中に空気感を感じる透明水彩画ならではの深く落ち着いた奥行のある表現でした。
長髪の玉神輝美先生はお父様が映画看板を描く仕事をしていて幼いころから大きな看板の絵を描くお父様の姿を見て育ったそうです。ひかりと影を表現したイラストレーションの要素も感じるテクニックを玉神先生から学びました。
一番強い印象が残った先生がいます。女子美術大学の講師であり日本では実力もあり有名な小野月夜先生から学びました。小野月夜先生は実習授業のはじめの30分〜40分を当日持ち込んだ生花(色とりどりのバラが多い)をモチーフして自分自ら絵を描いてその描き方ポイントを教え解説しながら筆を動かす、という大胆な筆さばきでありながら本物の腕前を私に見せつけました。小野月夜先生の透明水彩画は色彩も鮮やかで形もしっかりしたデッサンです。下描きの線は描きません。本番一発即筆に透明水彩絵具をつけてバサバサどんどん描き進めていくのです。それはそれはスゴイのひとことです。筆さばきは魔法のように感じた為、「先生の筆さばき魔法の筆みたいですね」って私が言うと先生は「ハハハッ」と笑って「私は絵描きだから。。」とおっしゃいました。そのひとことに自分の頭は「ガーン」となり、「本当にかっこいいな。」と思いました。それは当然のセルフではありますが、なかなかほとんどのプロでも言える言葉ではありません。
本当に素晴らしく本物だなと感動するくらいの実力者でした。


ほかには青木美和先生・高根沢晋也先生・ならざき清春先生・ペン彩画の五十嵐吉彦先生からも学びました。 
透明水彩画家9人の先生から学びました。それぞれの先生でその方しか学べないことがありました。共通することは透明水彩画を描いているときは楽しくて幸せなときだったということです。その中で透明水彩画が自分なりに理解することができるようになりました。
それぞれ9人の先生の透明水彩画に対しての考え方を話すと長くなりますので割愛しますが、同じ画材でありながら個人技法手法・表現の多様性・道具とか筆の在り方・使い方がちがいました。具体的には個人個人の先生によってまったく違うことが明確にわかりました。たとえば絵具ひとつとっても あるA先生=絵具はあるメーカーの固形絵具が良いという、B先生=あるメーカーのチューブ入り絵具が良いという。これは全先生が絵具、水彩用紙、筆、付随する道具類すべてにおいてまったく違う品物を指定したり教えていました。
・・・ということは 結論として 先生によって それぞれ全く異なる画材と手法で制作していることがわかり 今度は自分が透明水彩画を描くときは 自分なりの透明水彩画に対しての考え方、技法の違い、表現方法はあってもいいということです。
自分のオリジナリティーは まさに あって当たり前ということがわかりました。 
有名な先生達の教室で共に学んだ生徒の声でたびたび耳にしたことがありました。「自分はもういい歳だから デッサンもいくら練習してもたかが知れている。そんなにうまくはなれない。でも上手な絵を描きたい。」とおっしゃられていました。           ずいぶん欲張りな希望をおっしゃるなと思いましたが、気持ちはすごくよくわかりました。「今まで美術とか絵の世界とは全く違う仕事を長年やってきて 水彩画には興味あるが、なかなか上達できない。」 との言葉を何度も聞きました。                  皆さんの言葉をひとつにまとめると「デッサンと着彩をもっとうまくなりたい。そして早く完成したい」・・・という主旨の欲張りな声をたくさん拝聴しました。            このような悩みをいう生徒が予想外に多いのが現状だということが同じ生徒の横のつながりでわかりました。    そう!この点が大きい目標であり、叶えたい目標です。         この希望を叶えられる手法をいままで9人の先生から学び、その後は本当に試行錯誤しながらやっとの思いで私のオリジナル技法を開発してきました。           教室に来た方を優先して今後はオリジナル技法を実践していきたいと思います。                              相浦 裕です。

 
| 相浦 裕 | - | 21:59 | comments(0) | trackbacks(0) |
病院へ入院した たまさちゃん。
あかちゃんのたまさちゃんは まだまだヨチヨチ歩き。
こんなカワイイあかちゃん、なのに病院へ連れて行くことになった。
 
それは去勢手術のためだ。 そして血液検査。
それから迷子になったときのために マイクロチップ挿入手術の入院。 新ペット時代だ。
はじめて飼ったときの初代「たま」の時代とはえらい違いになってきたぞ。
 
無事手術を終えて帰ってきたときは たまさちゃんの首から逆三角錐の帽子のようなものをつけられて手術したところを舐めたり掻いたりできないようにしてあり、
そのために自由が効かないらしくて見ていて痛々しい。
 
マイクロチップは たまさちゃんという血統書の出身地。名前。生年月日。飼い主の名前。
住所氏名。連絡先が入っていて保健所へ連れて行かれてもすぐ判明して飼い主へ連絡されるようになっているらしい。完璧ではないかもしれないが少し安心できる。
 
首から逆三角錐の帽子のようなものをして10日ばかりして これをやっと外す日がきた。
たまさちゃんは このときを待ってました〜と言わんばかりに突然暴れだした。
手におえない猫。えらい猫を飼ってしまった。
 
2日ばかりすると 落ち着いてきたが何でもかんでも珍しくて見て触って遊んでいる。
右の手のひら上にチョコンとのるくらいの大きさ。
 
ちっちゃくてカワイイたまさちゃん、大きくなれ〜と思いながら ミルクを飲ませようと思いついた。
ミルクを哺乳瓶で飲ませたら はじめは美味しそうにクチュクチュと飲んでいたが、
そのうち その先端部分の柔らかい呑口をかじってゴックンと飲み込んで食べてしまった。こんな子猫にひきちぎられた先端部分のない悲惨な哺乳瓶なんか見たことない。
たまさちゃんの目はまん丸になって すごい満足している感じ。恐ろしい子猫だ。
「ウワ〜ッ!どうしよう。スゴイ子猫だなぁ。」おなかの中でつまって死んだらどうしよう、と こちらとしてはドキドキして心配してしまった。
 
すぐ新しい哺乳瓶を購入してきて再チャレンジしてみた。
「さ〜っ!たまさちゃん、ミルクの時間だよ〜。」と抱っこして飲ませると
やっぱりこの哺乳瓶の先端も噛みちぎってゴックンと飲み込んでしまった。
 
人間のあかちゃんだったら 飲み込んだあと、悪気はなくニコっと笑っている感じです。
 
 たまさちゃんの目はまん丸に大きく見開きこちらを見ている。
「何してんの? 早く続きのミルクちょーだい!。」って感じです。
 
「なんという恐ろしい子猫、たまさちゃん、だろう。」 
先端部分がひきちぎられた哺乳瓶を手に持ち 唖然としながら そう思った。 
相浦 裕です。

| 相浦 裕 | - | 22:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
たまさちゃん。                                相浦 裕です。
たまさちゃん。 
僕が生まれて初めてお友達になったのは 記憶の限りでは人間ではなく子猫だった。
やっと立って歩くことができるようになった頃出逢った子猫。
その名は「たま」。
サザエさんでもお馴染みの名前。ある人から ありきたりのネーミングだな〜とひどく馬鹿にされた。 
でも自分にとっては自分だけのかわいい名前だ。
 
この「たま」は自分の人生の中で大きな存在になっていった。
夢もよく見た。ブログで最初にこのことを綴っている。
そのときのたまとの別れが いまでもまだ思い出せば辛い。
 
時を経て 大人になって「たまジュニア」ともいうべき子猫がいま我が家へきてくれた。
かわいいとは充分知っているが、こんなに可愛い存在だったとはあらためて毎日が感激の連続だ。
 
お誕生日=2010年10月10日。Scottish Fold :三毛猫。Eye color= Gold.
はじめて出逢った所は東京都町田市多摩境のカインズホームで出逢った。
生まれて30日程のヨチヨチ歩きの子猫だ。
ガラス越しに見たときは子猫がうしろ姿だった。見た瞬間にビビッと頭と心に稲妻が走った。
正面の顔を見て目がクルリンとしていて本当に腕に鳥肌が立ったのだ。
生まれて初めて出会った時の三毛猫の「たま」にあまりにも似過ぎているではないか。
「ウワ〜っと。たまだ。」「やっと見つけた。」と口走っていた。
 
ここまでくるのに関東地方のあらゆるペットショップ、動物病院、保健所、保護団体や施設その他諸々の場所へ行った。自分が自然と電気が走る猫がどこかにいないかを待ち望み趣味の一環のように1〜2年歩き回った。
三毛猫で白、茶、黒その3色模様がたまとそっくりだ。「たま」と再会したかのようだった。
 
さっそく名前をつけようと思った。 
幼い時の最初の猫が「たま」だから「たま」にしたいくらいだが 同じたまにするのは気が引ける。
近くにサマンサタバサのバッグがあった。
このバックにヒョコヒョコと入って行く姿が凄くかわいかった。
このバッグの名称のタバサという響きに影響されて この子は「たまさちゃん!」がピッタリだと思った。
よし、これからこの子猫は「たまさちゃん!」と呼ぼうと決めた。
たまさちゃんとの新しい生活がはじまったのだ。          相浦 裕です。


 
| 相浦 裕 | - | 22:37 | comments(0) | trackbacks(0) |
「夢」
  相浦 裕です。
 
小学生のとき 日曜日夕食のあとのテレビが楽しみだった。
それは おしゃれでその上 ジェントルマンなウォールト・ディズニー司会のテレビ番組「Disney」を見ることだった。
これが一週間の何よりの楽しみだった。

ウォールト・ディズニーはテレビを見る子供と大人を夢と魔法の世界へ誘ってくれた。
 
中学の頃だろうかいつの間にかその番組は終了して見られなくなった。
たぶんアメリカから番組を仕入れて放送していた為、予算的な関係でもあったのだろう。
とても悲しかった。また見たいという気持ちだけがずっと長い間あった。
 
テレビを見ながら
「こんな素晴らしいディズニーの仕事が自分にもできたらいいな〜。」と自然と思った。
いくら自分が思ってもウォールト・ディズニーと相浦裕はかけ離れすぎていて
神様に その思いは通じるわけがなかった。
 
大阪芸大の学生時代に渡米した際、ロサンゼルスにあるディズニーランドへ遊びに行く機会ができた。そこには小学生の頃テレビで見て憧れていたディズニーランドの世界が広がっていた。
生涯ここに来ることはありえない場所だった。もう興奮した。

自分の目の前に夢のディズニーランドがあるという不思議さに本当に信じられない喜びでいっぱいになった。
ワールドバザール・アドベンチャーランド・ウエスタンランド・クリックランド・ファンタジーランド・トゥーンタウン・
トゥモローランドと一日では到底回り切れない広大さにも驚いた。

しかし個人的に何より感動したのは・・ホーンテッドマンション・カリブの海賊・ジャングルクルーズ・ウエスタンリバー鉄道・イッツ・ア・スモールワールドの世界には感動以上の鳥肌連続であり脱帽してお辞儀するくらいの刺激をいただいた。
 
その内容は日本だけで暮らしていた自分の世界観・人生観・世の中の森羅万象・物事全般のベーシックな考え方にまでも大きく覆すほどの威力があった。
あらためてウォールト・ディズニーの偉大さとディズニーランドの偉大さを知り得た。
そして自分の美術的・デザイン的センスを磨かせていただいた。
 
日本にディズニーランドがなかった頃、その偉大なディズニーランドが日本で開園の構想があることを新聞で知った時は驚いた。そして嬉しくてたまらなくなった。
しかもまさか東京で建設が始まるという。その時東京都高輪に住んでいて品川から海の下のトンネルを過ぎるとほど近いのだ。これで日本でもディズニーランドへ行けると思った。
それを知った時からいつディズニーランドが開園するか待ちどうしくて仕方なかった。
 
いつしか社会へ出て 湘南イラストレーション倶楽部を設立して たくさんのイラストレーションの仕事を受注してきた。全国各地の博物館の仕事・テーマパークの仕事・雑誌の仕事・広告の仕事といろんな種類のイラストレーションの制作をしてきた。
 
そんな仕事をしていたある日だった。
東京ディズニーランドのイラストレーション制作依頼がきた。「まっさか〜。まさか。・・・」
ホッペタをつねってみた。強くつねったのでひどく痛かった。
痛みと同時に嬉しすぎて用もないのに片瀬の海岸まで走っていった。
夕日が真っ赤で眩しいくらい綺麗だった。
 
打ち合わせはオリエントランド社内であり何もかもが新鮮で興味津々の社内風景だった。
依頼内容の最初は東京ディズニーランド園内で打ち上げる花火の演出用イラストレーション制作だった。無数のパターンの演出場面を表現してプレゼンテーションに出した。
そして自分がプレゼンテーションした花火が上がるのを見た時は何とも言いようがない不思議な気持ちになった。絵に描いた想像が現実として夜空に上がっているのだ。
次はトゥモローランド・キャプテンEOのサインデザイン制作だった。
この作品は完成後、現場で見たときは自分でも何てかっこいい作品だろうと思った。
 
今まで生きてきて夢のように記憶に残るのは
「トゥーンタウンのマップイラストレーションポスター」の制作だ。
駅貼りのBゼロ版ポスターで世界中の規格ポスターの中では最もデカい印刷物作品だ。
トゥーンタウンがまだ工事着工前でこれから工事作業をスタートする直前の頃だった。
 
だから完成のトゥーンタウン全体像を知らないまま制作しなければならない。
完成後はトゥーンタウン園内に来園するゲストの皆様にわかりやすい情報マップにすることが主眼となる。責任重大と受け止めた。そしてモチベーションも緊張感もかなり上がってきた。
それに単なるマップとは大違いで夢と魔法の王国らしい演出表現も必要だ。
まずはトゥーンタウンのイラストレーションタッチを決めるのに複数のタッチサンプル作品を多数制作しプレゼンテーションした。このタッチサンプル作品は今も大事に保管中だ。
 
その中で最終的に決まったタッチに沿ってトゥーンタウンの園内を描いていく。
アートディレクターから「アメリカよりトゥーンタウンの模型が船便で到着した。」と連絡があった。
秋葉原にあるような電車・汽車のジオラマ風景的模型だろうと想像しながらオリエントランド社へ向かった。
担当者が 「トゥーンタウンのジオラマ風景模型を参考にしてポスター制作するので模型のシークレットルームへご案内します。」と言ってワゴン車へ乗せられてそのハウスへ連れていかれた。
ハウスへ到着して その建物のドアをオープンすると そこには広大なトゥーンタウンの風景模型があった。天井の高い体育館みたいなところに だだっ広い空間にトゥーンタウンのものすごい大きな風景模型があったので 
びっくり仰天、腰を抜かした。

まだ日本中の一般の誰もが見たことがないジオラマ風景を自分だけが見ている。
とにかくその精密な表現には驚いた。遊び心がいっぱいなのだ。「ウワァー。スゴイッ!」
「ウォールト・ディズニーってやっぱりやることがひと味もふた味もスケールが違う。
これは凄いな〜!」と呆然自失となった。
ひとことで言い表すには言い足りないくらいの緻密で繊細でかわいい模型で感動しまくった。この模型を日本中の人々に公開すればこれはまたファンを魅了するだろうと感じた。
夢中でスケッチしたりカメラではあらゆる角度からトゥーンタウンのジオラマ風景模型を撮りまくった。
制作時間は1〜2ヶ月はかかる内容だったが、アートディレクターからは「2週間で仕上げてほしい」というまるで無理な依頼内容だ。
無理な要求に腹立たしくも感じながら期限に間に合わせるため緊張の連続で昼夜、寝ずに無我夢中で制作した。
小学生の頃はじめて見たときのウォールト・ディズニーのテレビ番組を思い出した。
あの時は 「あんな素晴らしいディズニーの仕事が自分もできたらいいな〜。」と思っていた。 
そんな時を思い浮かべながら制作に昼夜頑張った。

 作業を進めながら「いま、あの時の 夢の仕事をしている。」 と思った。
 
作品も完成して全国の主要駅には Bゼロの特大サイズの大判トゥーンタウンポスターがひかり輝いていた。 

もうひとつの作品、国際花と緑の博覧会サントリー館フラワーフォール大壁画の大きな仕事も 
夢にも思っていなかった夢以上の 夢の仕事だった。

 
ただそれ以上の 幼いころからの純粋な夢だったのは 
「ディズニーランド]   の絵を描けたことだ。
自分にとっての 夢が叶えられたのだ。     
                              相浦 裕です。

 
| 相浦 裕 | - | 22:16 | comments(0) | trackbacks(0) |
大手工芸社T社との業務提携契約締結成功。 相浦 裕です。
有限会社湘南イラストレーション倶楽部を立ち上げてすぐに会社の営業活動をした。
雨の日、風の日、夏の暑い日差しの中、寒くてたまらない日、具合の悪い日、
とにかく動き回った。活動した。

個人のデザイン事務所から大きいデザイン会社、そして大手電通、博報堂関係と東京都内は何百ヶ所も訪問した。
個人デザイン事務所の中には有名なデザイナー、ディレクターがいるところもあった。
プレゼンテーションの絵に関して ある有名デザイナーの方は「いま、ニューヨークはアーティスト活動が
活発だからそこにあなたの絵をもって見せてくれば面白いことになるよ。」との言葉を頂いた。 


そんな話を頂いてから数週間の内に4〜5件も「海外で個展をしなさい」等々と同じような話を何件も頂いて、はじめは考えもしなかったものが、4件目、5件目で一時「海外で個展か〜」どうしようかと迷い、考える時期があった。
しかし始めたばかりの会社、身内は現実的な考えがあり反対された。
自分の家庭環境等々を鑑みると 今はこのまま会社活動をしようという結論に至った。

そんな迷いもある中である大手工芸社T社のある役員Iさんから弊社に「ニューロン」という会社スペシャルチーム
組織があるんだが・・という話だった。

そのチームには建築会社、出版会社、インテリアの会社、造形、パース、写真、等々のクリエイティブな
会社が入っていてニューロンという組織を形成していた。


その中にはイラストレーション制作会社はなかった。
大手工芸社T社のある役員Iさんはイラストレーション制作の会社を是非スペシャルチームに入れたい。
御社「湘南イラストレーション倶楽部」をそのスペシャルチーム組織にスカウトしたいという話だった。

代表者だけが在籍するヘッドハンティングだった。
 
仕事は博物館の展示場の解説的イラストレーションがメインでそのうち石川県白峰村の恐竜の博物館の
大きな壁画等々の依頼が続々と出てきた。

やがて信頼関係構築後、大手工芸社T社との業務提携契約締結に成功した。
イラストレーション制作会社で大手工芸社との業務提携契約締結成功の例は今まで日本では聞いたことがない。
したがって大手工芸社T社の役員Iさんには大変お世話になった。
 
具体的な仕事例で一番大きい依頼は 東京のピューロランドのイラストレーション要素が含まれたサインデザインだ。
この制作もいろいろな出来事もセットで大変な仕事内容だった。
相浦 裕です。

 
| 相浦 裕 | - | 22:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
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