湘南イラストレーション倶楽部 相浦裕 【ただいま生徒募集中!】

相浦 裕 → 日本人。 長崎県出身。
誕生月日 → 11月23日勤労感謝の日
身長181僉 体重75繊
人間→ O型。温厚。のんびり屋。
好きなもの→ 絵。たまさちゃん。サイクリング。電車に乗ってお酒と美味しい弁当を食べること。ウォールトディズニーの世界。 お好み焼き。寿司。すき焼き。

 たまさ(ちゃん)。
 生年月日: 2010年10月10日。
  Breed: Scottish Fold (三毛猫)。
Eye Color:  Gold。
  性質:  気まま。自分勝手。
  長所:  とてもかわいい。
大手工芸社T社との業務提携契約締結成功。 相浦 裕です。
有限会社湘南イラストレーション倶楽部を立ち上げてすぐに会社の営業活動をした。
雨の日、風の日、夏の暑い日差しの中、寒くてたまらない日、具合の悪い日、
とにかく動き回った。活動した。

個人のデザイン事務所から大きいデザイン会社、そして大手電通、博報堂関係と東京都内は何百ヶ所も訪問した。
個人デザイン事務所の中には有名なデザイナー、ディレクターがいるところもあった。
プレゼンテーションの絵に関して ある有名デザイナーの方は「いま、ニューヨークはアーティスト活動が
活発だからそこにあなたの絵をもって見せてくれば面白いことになるよ。」との言葉を頂いた。 


そんな話を頂いてから数週間の内に4〜5件も「海外で個展をしなさい」等々と同じような話を何件も頂いて、はじめは考えもしなかったものが、4件目、5件目で一時「海外で個展か〜」どうしようかと迷い、考える時期があった。
しかし始めたばかりの会社、身内は現実的な考えがあり反対された。
自分の家庭環境等々を鑑みると 今はこのまま会社活動をしようという結論に至った。

そんな迷いもある中である大手工芸社T社のある役員Iさんから弊社に「ニューロン」という会社スペシャルチーム
組織があるんだが・・という話だった。

そのチームには建築会社、出版会社、インテリアの会社、造形、パース、写真、等々のクリエイティブな
会社が入っていてニューロンという組織を形成していた。


その中にはイラストレーション制作会社はなかった。
大手工芸社T社のある役員Iさんはイラストレーション制作の会社を是非スペシャルチームに入れたい。
御社「湘南イラストレーション倶楽部」をそのスペシャルチーム組織にスカウトしたいという話だった。

代表者だけが在籍するヘッドハンティングだった。
 
仕事は博物館の展示場の解説的イラストレーションがメインでそのうち石川県白峰村の恐竜の博物館の
大きな壁画等々の依頼が続々と出てきた。

やがて信頼関係構築後、大手工芸社T社との業務提携契約締結に成功した。
イラストレーション制作会社で大手工芸社との業務提携契約締結成功の例は今まで日本では聞いたことがない。
したがって大手工芸社T社の役員Iさんには大変お世話になった。
 
具体的な仕事例で一番大きい依頼は 東京のピューロランドのイラストレーション要素が含まれたサインデザインだ。
この制作もいろいろな出来事もセットで大変な仕事内容だった。
相浦 裕です。

 
| 相浦 裕 | - | 22:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
●有限会社「湘南イラストレーション倶楽部」立ち上げ。

国際花博サントリー館大壁画フラワーフォールは花の博覧会というテーマに合わせて世界の花々約200種類を表現した。
その中には日本人の誰もが好きな花、また母の大好きな「桜の花」をたくさん無数に描こうと思った。

下描きは巻き絵状態の紙ロールを使用して毎日毎日「桜の花」を描き続けた。
忘れることのできないくらい何度も何度も描き直しながら描き進めた。
 
描いても描いてもまだまだ完成には程遠い時期には本当にこの絵は完成するのかと疑問にさえ感じるほどだった。
小学
6年生の頃、毎日めげずにマッチの棒だけで制作した京都の五重ノ塔。
夏休み中、すべての休みを使って毎日根気よく作っていた日をまぶたに思い浮かべた。
いつもそばにはペットの「たま」が作っているところをニコニコしながら(目を細めていたのでたぶん・・)見ていてくれた。あの時の根気強さをこの時によみがえらせなきゃという気持ちで制作していった。

そしていつの間にか月日は過ぎて作品は遂に完成の日がきた。完成が信じられないくらいだった。
その作品のオープン日。大阪の会場である国際花博サントリー館大壁画フラワーフォールの現場には大勢の来場客がいた。
胸にグッとくるものがあった。大盛況だった。制作中の頃を思い出し、たまらなく鳥肌が立つような嬉しさだった。

地元の新聞からテレビ、特にNHKが取材にきた。
新聞にも写真入りで新進気鋭作家という形でオーバーに大々的に取り上げられて大変恥ずかしく照れ臭い思いだった。
やがて国際花博が終了後間もなくして日本ディスプレイ協会が主催であり全国のプロ達が競い合うディスプレイの選考会があった。
日本中のディスプレイ作品の中から選ばれる日本ディスプレイ賞公募に国際花博サントリー館大壁画フラワーフォールが「日本ディスプレイ協会特別奨励賞」を受賞することができた。

続けて同大壁画はCSデザイン賞。銅賞受賞。翌年電通ギャラリーで国際花博サントリー館大壁画フラワーフォール原画・個展を開催できた。会場にきた各ギャラリー関係者から個展の勧誘を受けてその後、あらためて原宿のギャラリーをはじめ都内のデパート等々で同じ内容の原画展を開催する運びになった。
この波に乗ってイラストレーション制作会社を立ち上げる計画を同時進行で考えていった。
小規模な形から始めようと考えた為、有限会社を立ち上げることにした。
次にその会社の屋号を決めなくてはスタートできない。
生活しているところは大好きな湘南。
湘南の海の近くである藤沢市片瀬に住んでいたことから是非「湘南」という名称を屋号の一部にどうしてもつけたかった。
そしてイラストレーション制作会社。

シンプルで素直に命名しようと考えた。そして考え付いたのは・・・
「有限会社湘南イラストレーション倶楽部」 だった。
この屋号がすんなり決定した瞬間だった
 
会社をスタートさせてすぐに思いもかけないトヨタ自動車の年度カレンダー12ヶ月分のプレゼンテーションの話がきた。
大変驚いた。

あくまでプレゼンテーションだから恐らく駄目なのはわかっているが、まさにメジャーでビックな話だったのでプレゼンに落ちても勉強になるという話だった。
それだけに日本中のデザイン事務所や広告代理店、その中でも大手の電通、博報堂あたりが試技を削って争奪戦に加わってくる仕事なのだ。
勉強だと思って横綱の胸を借りるつもりでトヨタ自動車プレゼンテーションの作品のアイディアを考え尽くした。
最終的に出た案で車の室内からドライバーが車の外をフロントウインドウ越し見ている景色を表現することにした。
よその会社はすべて車の外観を売りたいのでそこからアイディアを考案してくるだろうという読みから差別化した逆の発想だった。

それからプレゼンテーション用の作品制作。日本中のデザイン関連会社が参加する大きなプレゼン。その結果発表の日が来た。
クライアントであるトヨタ自動車が湘南イラストレーション倶楽部のアイディアを大変感動し喜んでくれたというのだ。
プレゼンに勝利するのは大方の予想として電通、博報堂あたりの大企業だろうという読みがほとんどの人にあった。
しかし世の中の大方の予想とはまったく意に反した会社、仕事をはじめたばかりの個人企業に最終プレゼンテーション獲得の話が舞い込んでくるとは誰も予想がつかなかった。

「湘南イラストさんがトヨタカレンダープレゼンをとりました〜。」と連絡がきたときは
一挙に万歳する気持ちはなれなかった。プレゼン獲得が信じられないからだ。
時間の経過とともに胸の奥に次第と沸々と湧いてくる嬉しさ、ドキドキとする気持ちだった。

まさに信じ難いような嬉しさだった。 
これから始まることに何やら体全体がゾクゾクとしてきた。
                              相浦 裕です。

 
| 相浦 裕 | - | 22:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
「カスミ草と桜」  相浦 裕です。
 

 

母とは高校時代から 学校帰宅後に よく話すようになった。

それは今から思うと 高校を卒業すると佐世保(母)を離れて遠い東京へ行くと話す機会も残り時間が少ないことが互いにわかっていて何となく話すようになったのだ。

 

そのとき母は「カスミ草が好いとるとよ。花束の中でカスミ草は主役じゃなか。カスミ草は主役を引き立てるワキ役ばってん可愛くて綺麗かと。」 といつもは理屈っぽいことを言わない母が私に話してくれたことがあった。

 

母はベッドの中で「桜も好いとると。もうそろそろしたら桜の花の咲くけん、楽しみたい。」と言った。

「桜はよかねー。あと1週間もしたら桜の花も咲くけん、はよう病気ば治して桜ば見らんばたい。」と私も話した。

市民病院の前は佐世保川で川沿いに桜の木々が連なっているのだ。

病室の窓からも絶好の桜見観賞ができる位置だ。

しかしその希望は叶わなかった。

 

母のベッド下で寝ていた私に 夜中、母は急に起きて真っ暗な病室の中で

「ひろし。ちょっと起きて。」と私をゆすり起こした。

 

何事かとびっくりしながら眠い目をこすり母のほうを見ると  

「ひろし、ごめん。」 

と母は精一杯のこころを込めて はき出すように言った。

 

生涯、忘れられないひとことだった。

「よか。よかと。なんば言いよるとね。はよ寝らんばたい。」と私は言って

母へ布団を掛けた。

これが母との最期の会話となった。

 

まさかこんなに急に病状が悪化してしまうなんて信じられなかった。

父から母が癌になり余命幾ばくも無いと知らされて2ヶ月経過したか否かくらいで

思いもかけず遠い星にいってしまった。

なんということか。悲しい気持ちでいっぱいだ。

 

桜の花が満開になる直前に逝ってしまい悔しくて 悔しくてたまらなかった。

まだまだ話したいことがいっぱい、いっぱいあったのに。

母の通夜とお葬式の日は 私の国際花博サントリー館の大壁画を制作するプロセスをNHKのドキュメント放送としての撮影予定日だった。

 

 

母の通夜とお葬式の日とNHKのドキュメント放送の撮影予定日がちょうど重なってしまった。

 

私はどちらを選択してよいか一時悩んだが、やはり母をお見送りするほうを選んだ。

NHKへドキュメントの撮影をお断りの連絡をするときは 本当に断腸の思いだった。

仕方ないが悔しかった。 これも人生かも・・と考えるようにした。

 

お葬式も終わり 東京へ帰り ひとりになって はじめて今まで人前では悲しみを我慢していたぶんを 思いっきりかみしめて 母を偲び涙した。

 

今度は母の分まで自分が生きるためには 悲しんでばかりもいられない。

さぁー国際花博サントリー館大壁画をきっかけにして 
             次なるステップは制作会社を立ち上げようと考えた。

          相浦 裕です。

    
| 相浦 裕 | - | 23:23 | comments(0) | trackbacks(0) |
母との最期の会話。   相浦 裕です。
 

 

 

慌ただしく長崎空港へ向かった。

空港からリムジンで佐世保へ向かうと車窓から懐かしい街が見えてきた。

 

駅へ到着すると真っすぐ佐世保市民病院へ向かった。

病院の受付で母の入院する部屋を聞き 古い病院の薄暗い階段を上がって母の部屋のドアをノックした。

ややしゃがれた返事があったのでドアを開けると ベッドの中から顔だけあげてこちらを向く母がいた。 何も知らなければ重病とは思えない。

私の母は あまり風邪などの病気で布団に入っている姿を見たことがなかったので幼いころから強い母という印象がある。 

久しぶりにみる母は布団の中で小さくなっていた。

ベッドで寝ている姿は幼いころからこんな入院している母を見たことがない状況に痛々しく感じた。

 

そういえば長崎へ帰る前に 大阪の国際花博サントリー館の建物全体がほぼ完成に近いとN工芸社から連絡があった。

是非、佐世保で入院中の母にサントリー館の建物と自分が制作した壁画完成直前の様子を撮影するためサントリー館の現場へ入ることにした。

制作者本人が言うにはおこがましいがサントリー館は大迫力の素晴らしいものであった。

その中に自分の作品である大壁画も心から身震いするほどのものがあった。

 

母のことを佐世保市民病院の担当医から「余命はもうごく僅かです。」と宣告され

花博サントリー館壁画作品を母へ見せたいと強く思った。それが現在自分ができる範囲の最高の親孝行だ。作品を母へ見せるためにサントリー館壁画の写真を次々に撮った。

 

そして母の入院している病院の壁に写真プリントした作品の写真を引き伸ばして貼った。

母が寝ていてもよく見える位置に何枚も貼り付けた。

 

母は私の作品を見て「あらっ綺麗かね〜。この絵はあんたが描いたと?」と聞いたので

私は「そうたい。」と答えた。

母は「綺麗か。綺麗かばい。よか絵たい。よか。よか。」とそれだけ言って笑った。

私は「ありがとう。それだけ言うてもろうて嬉しかばい。」と言った。

 

母はあれやこれやと壁画のことを聞かなかった。

私も仕事を依頼されたときの喜びや苦労話等一切何も言わなかった。

 

それから毎日、母は私の顔を見るたびに作品の写真を見て

「綺麗か。綺麗かばい。よか絵たい。よか。よか。」と繰り返し寝言のように言ってくれた。

人生の中でこれほどの褒め言葉はないと感じ嬉しかった。

 

入院している母は水か氷を少し口に含むだけで何も食べられなかった。

ただ昔から母はあんこたっぷりの“おはぎ”が大好きであった。

母は 私へ「四カ町の“おはぎ“ば買うてきてくれんね。」と言った。

私は「え?今は点滴だけで先生は何も食べちゃいかん。って言われとるやろ?」と言うと

母は「うんにゃ、おはぎばただ見るだけでよかとたい。」と言う。

可哀そうでたまらず「じゃちょっと待っとって。」と言って四カ町の“おはぎ“を買ってきた。

何より大好きなおはぎを見せると それを食べられない母が何度も確認するように見て 覚悟を決めたように感じた。

「ありがとうね。」と言って何とも言えない表情であった。

私は心の中で母が可哀そうでたまらず泣いて泣いて狂うほど泣きたかったが、
その姿を見せないように最大に耐えた。

 

私は入院中の母のベッドの下でざこ寝していた。

母は夜中、急に起きて真っ暗な病室の中で

「ひろし。ちょっと起きて。」と私をゆすり起こした。

そして精一杯のこころを込めて 

「ひろし、ごめん。」 とはき出すように言った。

 

生涯、忘れられないひとことだった。

私は「よか。よかと。なんば言いよるとね。はよ寝らんばたい。」と言って

母へ布団を掛けた。

 

これが母との最期の会話となった。  

相浦 裕です。

| 相浦 裕 | - | 23:31 | comments(0) | trackbacks(0) |
●「母」     相浦 裕です。
 

 

自分の人生の中で もっとも深刻で愕然とする電話が長崎の父からあった。

それは正月気分も過ぎた1月末だった。 

いつも強気でプライドの高い父親からの電話だったが いつになくおとなしい声だった。

「何か変だな。」とすぐに気が付いた。

 

電話は「サダ子(母)が風邪のごたるようじゃったけん近所の病院で診察ば受けたと。

先生は精密検査ば受けるように勧められたけん、紹介状ば書いてもろうて       すぐ市民病院で検査ばしたっちゃん。そうしたら精密検査の結果、
市民病院の先生がおっしゃるには サダ子は“悪性の癌ですばい。
はよう入院せんば。”っちゅうお話しがあったとばい。」 
父からはそんな内容の電話だった。

 

すぐ市民病院へ緊急入院することとなった。

 

母は入院の準備もそこそこに慌ててしまい寒空の元、靴下もせずにサンダル履きを急いで突っ掛け 玄関から かけ出たらしい。

 

その時の母の様子が 手にとるようにわかり何とも可哀そうでたまらなかった。

何でもいいから自分も少しでも手助けし役に立ちたい気持ちになった。

長崎へ行きたいが行けない、もどかしさ。悔しさ。はがゆい気持ちでいっぱいだった。

しかし、いま私は東京にいて今しかない自分の人生史上もっとも重要な仕事の制作をしていた。なぜに・・。

 

一週間ばかり過ぎたころ、また父から電話があった。

「もっと詳しかサダ子の検査結果が出たばい。

市民病院の先生から“余命はもうあまりありません”て言われたばい。」

と父が言った瞬間、私は頭が真っ白になった。

 

脈動も呼吸も固まって止まったかのように目の前は白い風景になった。

自分の母が「余命はもうあまりない」。なんて・・とても信じられなかった。

 

私が18歳。東京へ出発するとき雲ひとつない真っ青な空を見上げた朝、

佐世保の福田町の家の玄関前に立って姿が見えなくなるまで手を振ってくれた母。

私も長い階段の下から旅行カバンをかかえ階段の上に立つ母を見上げて手を振った。

この青い空の風景と母の姿が脳裏によぎって つい頬に流れるものがあった。

この連絡を聞いたときが人生の中でも もっとも辛い時間だった。

 

仕事も大切だが もう黙っていられなくて大壁画の制作の手をやむなく休めて

長崎県佐世保へ帰郷することにした。  

相浦 裕です。

| 相浦 裕 | - | 23:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
●「国際花博サントリー館プレゼン発表!」

 

「相浦さん!相浦さん!  内定、内定。 ついに内定しました〜!!」

という興奮気味の声で大手N工芸社から連絡がきた。

 

「えっ? まさかっ!!」

 

「国際花と緑の博覧会 サントリー館 大壁画フラワーウォールの最終審査プレゼンテーションで

内定しました。」 の連絡がきたのだ。  

まさか じゃなく本当だった。

電通。博報堂。をはじめとする大手工芸社、大手広告代理店、全国デザイン会社各社が挙ってこのプレゼンテーションに勝つため競い合ってきた。

思い起こせば競合他社300社の中で勝ち抜き 自分が選ばれたことは 到底信じられなかった。

あらためて嬉しさも ひとしおで何と表現していいか わからないくらいの喜びだ。 

部屋の中で 何度も\(^o^)/万歳をした。

 

喜んでばかりもいられないので早速、次の日からサントリー館の大壁画フラワーウォールの制作に入った。

まずは実際の壁に具体的アイディアをどのように構築していくか考えた。

壁画の部分は鳥瞰図的に空の上から地上のサントリー館を見たとすると「蛍」のシルエットをした形になる。

夜になると蛍の御尻が光るようになる。この光る部分が高さ約15メートル、円筒形でそれを平面にして長さを計るとその長さは約70メートルにもなる超巨大な壁画だ。 

 

この大きさでは描けないので まずは十分の一の縮尺図で下描きしていく。

それでも製図台からはみ出す大きさになるため、昔の日本絵画様式のひとつの表現方法である絵巻物を参考にして創作して下描きをしていった。

そこに表現する花々達は国立国会図書館に行った。

何か月も通い続けて世界中の花々を調査した。 

 

世界には花々の種類が無数にある。 絵にするとほぼ同じような形の花々も無数にある。

分類してもしきれないほどあるため形に特徴のあるものを分野別にまとめたりした。

その中から誰もが知っている花を壁画描写候補にした。日本人が好きな花も候補にしていった。

世界中の花の何万、何千種類から200種類選り分けて最終的には約150種類くらいにした。

画面配置、構成を悩み検討したり、何度もやり直し作業をした。

 

大壁画の花の主役は日本の「桜」にした。

毎日毎日、朝から夜中まで「桜」を描いた。 

「桜」を描いていた正月早々、NHKから
花博大壁画を描く相浦さんの制作姿勢をドキュメンタリータッチで

放送したいとの話があった。3月のお彼岸後あたりに取材したいというのでお受けした。

 

世の中の正月気分も過ぎた1月末だった。

電話など 何年もしてこない父親から久し振りに電話があった。

その電話は自分の人生の中で もっとも深刻で愕然とする内容だった。

相浦 裕です。

| 相浦 裕 | - | 21:01 | comments(0) | trackbacks(0) |
●「サントリー大壁画プレゼンテーション。」   相浦 裕です。
 

日本電気デザインセンターでは 人間的にも素晴らしい人々と多く出会った。

 

ある日 大手N工芸社から 驚くべき話があった。

「相浦さんのウェービーラインの絵を壁画のプレゼンテーションへ出品したい」 という話だった。
壁画?

はじめの印象は「渋谷パルコ横に 壁画を何度も描いたことがあるのでそのような感じの壁画でしょうか?」と尋ねた。 

「いや、もっとでかい壁画です。世界的にも記録されるほどの壁画になります。」と
大手N工芸社は話した。

 

「え〜っ!!世界的にも記録されるほどの壁画???」それだけ聞いても大変驚きだった。

「場所は?どこですか?」と聞くと、「大阪」という。

「クライアントは?」「サントリーです。」

 

「もっと具体的にお話し下さいませんか?」と言うと「会場は大阪で 国際花と緑の博覧会が開催されます。

そこには世界各国の出展ブース建物が立ち並びます。世界各国の花や植物が展示されます。日本はその中のサントリーが出展し、映像や花や植物を展示しながら建物の周りを世界一大きいステンドグラス様式の壁画を創作します。

 

この壁画を相浦さんへお願いしたいと思います。何卒よろしくお願い申し上げます。」という話だった。

この話を聞いて腰が抜けた。   こんな話聞いたことがない。

 

自分にこんな凄い大きい話が舞い込むこと自体が間違っているんじゃないの?と思った。

N工芸社は続けて「ただし、電通。博報堂。をはじめとする錚々たる会社がプレゼンへ出品します。

その他企業、デザインセンター。大手工芸社。大手デザイン広告代理店。全国デザイン会社各社。

プレゼンテーションなので競合他社が最低200〜300社はいます。

 

その中で勝ち抜いてひとりの作家が決定するのです。だから並大抵のことでは勝ち抜けません。」と
説明していただいた。

N工芸社へは「なるほど。では良いお話なので頑張ります。」と声を弾ませて答えておいた。

説明を受けた直後の正直な気持ちは 「そんなの無理だよ」と心の奥底で思っていた。

しかし、 こんな大きい話を聞いていただけで「自分にはもったいないし有難いことだと思った。」

 

プレゼンテーション一次審査が通過し、二次審査も通過したとき、ここまで通過すれば本望と思った。
次の段階である三次審査も通過したとき 人間の欲望が目覚めてきた。
ラストで落ちるか上がるかの「最終審査も どうか内定してください」という
気持ちに自分が変化してきた。

 

駄目かもしれないけど明治神宮へお参りに行って誠実にこころを込めてお祈りした。 

「神様どうか僕にサントリーの大壁画の仕事を下さい。お願い致します。御頼み申し上げます。」決まった宗教を持っているわけではないが そんな精神状態になってお参りしたのだ。

そしてついに最終審査の発表の日がきた。

相浦 裕です。

| 相浦 裕 | - | 22:03 | comments(0) | trackbacks(0) |
「●運●」  相浦 裕です。

「NHK美術センター」と「日本電気デザインセンター」の2社をアタックしたが 

受験直後、あまりに受験されている方々の頭脳明晰そうな顔ぶれに それだけ見ても 「もう駄目だ。」という諦めの気持ちでいっぱいになってしまった。

帰り道、地平線の向こうに沈む真っ赤な夕日を見ながら「自分の実力よりレベルの高い会社を受けること自体がいけない事だった。」と反省させられた。

 

暫く経過したある日、「日本電気デザインセンター」から結果通知書が到着した。

結果は内心理解しているもののビリビリビリと会社から届いた封筒をゆっくり破った。

 

封筒の中の通知書は なんということか、 「内定」の通知書だったのだ。

 

あの頭脳明晰集団、錚々たる顔ぶれの中から たったひとり、 自分ひとりが 内定したのだ。

驚きを通り越して、 自分という鼓動が 停止し固まった。

何ということか! 内定した。 

これからどうしようか。という気持ちが正直なところだった。

 

そんな気持ちのときに「NHK美術センター」から通知があり ここも内定の通知だった。また心臓が固まった。

たまたま 自分に 運が連続して回ってきただけのような気がした。

どちらかの会社を選択しなければならない。

 

NHKは内定後、会社内の案内と説明を受けた。これだけでも本当に素晴らしい施設と仕事内容が勉強になった。

NHKは山手線で渋谷駅で降りて10分くらいの場所だ。日本電気は山手線の田町駅から5分の場所にある。

湘南地方に住んでいたため 東海道線で真っ直ぐ一本で着くのは田町駅。渋谷駅は東海道線で品川駅から乗り換えて山手線に乗り電車と徒歩合計30分はプラスして通勤時間を考慮することが必要になってくる。

 

その他いろいろと考えた結果、私は「日本電気デザインセンター」を選択した。

入社して早々に大々的な歓迎パーティが催されたり 次に有名ホテル大会場の忘年会ではクジ引きの結果、社長席に当たってしまって社長と役員の方々と同席するはめになった。有名歌手を招待して社長席で歌も聞かされた。

嬉し恥ずかしい状況だったが会の中心席なので大変エライ人扱いを受けたのだ。 

その後は日本電気の大阪ビジネスパークに幹部の方々と出張に行った。眼下には大阪城が悠々と見えて素晴らしい施設だった。ここを皮切りにして日本電気の神様的部長と言われるお方とご一緒に全国の日本電気支社へ将来の幹部候補として自己紹介の訪問挨拶周りをした。 

そんな矢先の頃であった。 またしても目玉が飛び出る出来事が知らされた。 

                              相浦 裕です。

| 相浦 裕 | - | 21:59 | comments(0) | trackbacks(0) |
◆「NHK美術センター」と「日本電気デザインセンター」 相浦裕です。
 

日本一周を無事に果たそうとした前日の帰途、

静岡の緑に映えた茶畑の間から富士山が見えた。

 

日本晴れの雲一つない真っ青な空の背景に 真っ白で雄大な富士山が目に飛び込んできた。

本当に美しかった。見とれてしまった。

 

「これから始まる 未来の新しい出来事達との出会いは素晴らしいぞ。」

と富士山が言ってくれて 予感させているようにも見えてきて何となくゾクゾクしてきた。

 

東京へ帰宅し あらためて今後のことをよく考えてみた。

夢であるイラストレーターにすぐには ならないほうがよいだろう。

まずデザイン会社で勉強と修行を積み デザイン業界の全体像を把握して

イラストレーターの役目、立ち位置を知ることからはじめようと考えた。

 

就職活動はすぐにスタートさせた。

会社を選択するためには いろいろ悩み迷った挙句、希望としては

「NHK美術センター」と「日本電気デザインセンター」に絞った。

早速、履歴書を作り応募した。でも応募したあとに自信がなくなってきた。

しばらくして会社から同じ月で別々の日に両社から入社試験日が指定通知された。

 

「NHK美術センター」は筆記試験と実技試験があり 最後に面接があった。

面接は12〜13人の役職者達が面接官としてズラッと机の向こうに座ってこちらを凝視している。すごい面接官の人数だ。これだけでかなり緊張してしまった。

ニコニコ笑顔で話したつもりだが 緊張ばかりが全身を包み 自分のよさは発揮できなかった。 これは芳しくない結果になりそう。

 

次の会社は 「日本電気デザインセンター」での試験だった。

受験会場には錚々たる顔ぶれの受験者達80人前後が 待機していた。

こんな会場に入ったとたん、「あ〜自分はこの会社は無理だ。絶対落ちる。もう帰りたい。」

と即座に思った。

如何にも日本電気という大企業にピッタリな眼鏡にその風貌。頭の切れがよさそうな人たちばかりだ。この中でたった ひとり だけしか合格内定を授かれないのだ。大難関だ。

そして試験の最中「なんでこの会社へ応募したんだろう。無理に決まってる。時間と労力が無駄だった〜。」と強く後悔して悲しくなってしまった。

実技試験の内容は 「創造する未来建築。」 そんなのわかるわけがない。

あたまにきて、これも時間つぶしをするしかないと思い、まん丸のビルにインテリアもすべてまん丸な円を中心とした建築物を 自棄のヤんパチで強く濃ゆい鉛筆で描いた。

面接の順番が回ってきた。

以前、作ったモデリングペーストの素材のケーキを持ち込んだ。

日本電気デザインセンターでの業務内容とはほど遠いまったく分野の違う頓珍漢な作品を見せてしまったのだ。 こんな作品見せる人は過去にも未来にもいない。

 

日本電気の社長はじめ役職者の面接官15人あまりが一斉に苦笑いをはじめた。

面接官達も戸惑いを隠せないのだろう。

「恥ずかしい〜〜。」顔は赤く紅潮し胸の中は恥ずかしさで一杯になった。

 

もうこうなったら破れかぶれだ。

面接でいろいろな質問を受けても気持ちが開き直っているため

どんな難問も思いつくままにスラスラと答えておいた。

もしかすると面接官から見ると自信たっぷりの人間に見えたかもしれない。 

 

自分にとって「NHK美術センター」と「日本電気デザインセンター」は憧れの仕事場でしかなかったようだ。特に「NHK美術センター」はテレビで見ていて番組の終わりにテロップで番組制作「NHK美術センター」と出ていた。

自分もこんな番組制作に携わりたいなという気持ちになったことがある。

 

この日の帰り道、地平線の向こうに沈む赤い夕日を見ながら「あ〜残念だったな〜」と

今回の就職を諦めた。

相浦 裕です。

| 相浦 裕 | - | 22:33 | comments(0) | trackbacks(0) |
Imagine
 

Imagine there’s no heaven

it’s easy if you try

 

no hell below us

above us only sky

 

imagine all the people

living for today

 

Imagine there’s no countries

It isn’t hard to do

 

Nothing to kill or die for

And no religion too

 

Imagine all the people

Living life in peace

 

You may say I’m a dreamer

But I’m not the only one

 

I hope someday you’ll join us

And the word will live as one

 

Imagine no possessions

I wonder if you can

 

No need for greed or hunger

A brotherhood of man

 

Imagine all the people

Sharing all the world

 

You may say I’m a dreamer

But I’m not the only one

 

I hope someday you’ll join us

And the word will be as one

 

John lennon

| 相浦 裕 | - | 21:10 | comments(0) | trackbacks(0) |
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